去る8月11日、2025年の山の日、ギャラリーで絵画の作品展を観た。というわけで、ちょっと間が空いたが、感想文を書いてみた。
「遠いゆめを泳ぐ」
美術作家の大槻香奈による個展だった。全ての展示物が新作だった。大槻は「少女」をテーマにした絵画を中心に制作を行い、幅広い分野で活動を行う作家である。大槻の存在を知ったきっかけは動画プラットフォーム「シラス」のチャンネルであり、東浩紀による小説「クリュセの魚」のカバーイラストに見覚えがあったような気がした。
当日は行ったり来たりする通り雨にやきもきする天候だった。ギャラリーは東京神田神保町、自宅からおよそ数十キロという距離、ちなみにわたしはアートに親しみ深い人間ではなくて、よく考えてみたら美術作家の個展を観る経験それ自体が初めてだった。そんな奴が一体どうして作品展を観る気になったかといえば、たまたまXで見かけた「遠いゆめを泳ぐ」に関するポストに惹かれたからだった。要するに、ノリだけで現地に行ったということで、差し支えないだろう。
shirasu.io
note.com
申し訳ないが、動画のほうも概要をチェックする程度のていたらくだったので、後から情報を集めて、こういうところを注目すれば良かったのか、と学習した。油彩と線画でこうも違うんだなぁ。
ギャラリーに着いて、作品がわざとらしくない感じで展示されたスペースを、不審な挙動でウロついていたら、磁石ではりつけられたように足が長く留まった。
「みんなはらのなか」
鮮やかながら決して重たくない色彩、おびただしい情報量、骨が浮き出た魚、ざっくりしたレタリング、良くわからないけれど、なんかわかった、というやつだったと思う。
90年代に活躍したバンド「JUDY AND MARY」に「ランチ イン サバンナ」という楽曲があって、帰り道、ムワッっとする地下鉄のホームで、わたしはそれを思い返した。
作品展を観に行った動機、それはXでポストを見たからだったわけだが、わたしはそこに「JUDY AND MARY」の存在を勝手に見出してしまっていた。
「JUDY AND MARY」というバンドのネーミングは、快活でポジティヴな女のコ“ジュディ”とすこしひねくれ者のネガティヴな女のコ“マリー”という女の子の二面性を表している。(https://ja.wikipedia.org/wiki/JUDY_AND_MARY)
走る雲の影を飛び越えるわ/夏のにおい追いかけて/あぁ、夢はいつまでも覚めない/歌う風のように
(OverDrive)
見上げるほど高い向日葵はみんなの匂いがした
(ドキドキ)
夢が見た?/魚に夢で会った
(ラッキープール)
さよならは言わないでね/願いはひとつだけ/夏を待ってる
(ひとつだけ)
「JUDY AND MARY」のシングル曲からフレーズを引用してみた。少女が夏に恋をする。そんなモチーフの背景には日本の歌謡曲がうっすらとそびえている。
念のために断っておくが、作品展「遠いゆめを泳ぐ」とバンド「JUDY AND MARY」のあいだに関係性はない。「JUDY AND MARY」がどうの、歌謡曲がどうの、それらもわたしが勝手に思い込んだだけの話である。
さて少し歴史を遡ろう。1970年代にオーディション番組の「スター誕生」からデビューしたアイドル「山口百恵」は最初のシングル曲「としごろ」のセールスがスタッフの期待よりもふるわなかった。方針をかえた2枚目のシングル「青い果実」は、聴く者に性を意識させる歌詞を、十代だった山口に歌わせるという内容だった。いわば「青い性」というイメージ戦力、わたしは専門家ではないから詳細はわからないが、同時代の他のアイドルの印象と一線を画し、後にリリースした「ひと夏の経験」ではPTAから抗議が殺到したというが、良くも悪くも山口百恵の存在はそれで注目を集めた。
1980年3月、山口は俳優の三浦友和との婚約と同時に、半年後に定めた引退を公表する。山口と三浦は複数の映像作品で共演しているが、三島由紀夫の小説「潮騒」を原作にした1975年の映画のワンシーンは、NHKによる2013年の連続テレビ小説「あまちゃん」のなかで歴然とパロディされていた。
若者は彼をとりまくこの豊饒な自然と、彼自身との無上の調和を感じた。(中略)新治は日々の生活に、別に音楽を必要としなかったが、自然がそのまま音楽を充たしていたからに違いない。
(潮騒)
小説「潮騒」第6章からの引用である。音楽に関する記述が長くなり過ぎた。「遠いゆめを泳ぐ」の方面へと路線を修正しよう。
「少女」
仮に不可逆性の象徴が「少女」である、といってみる。少女が大人になる。人間における自然のプロセス、成長を経て属性がかわる。成長の条件はそれぞれだが、大人とみなされた人間が少女ではないとするならば、大人と少女は同じ身体に共存しない存在だから「大人」と「少女」という属性は矛盾した関係である。
夏に恋をして、ちょっとしたことでクヨクヨしつつも、ポジティブに生きている。
あるいは
扇情的に世間を挑発して、用意された虚構に戸惑いつつも、したたかに演じている。
「少女」は子供のまま止まりならぬ、大人になったら戻れないと知っている。
どちらかの属性ではおさまりきらない存在だから「少女」は不可逆的たりえないか。
わたしは「少女」だったことが無いので、本当のところは良くわからない
ギャラリーの奥の壁に飾ってあった絵画「少女」を観て、その表情が気になった。
大人になることが嫌なのか、子供であることが不満なのか、とにかく何かに怒っているのか、いやいや、そういう言葉でくくられることすら拒絶しているようにも見える。
「少女」はコンプリケイション、沈黙しながらも何かをものがたっている。
他人の顔をマジマジと眺めて、その意味を考えるなんて、そうそうに有り得ない。これはあくまで絵画「少女」を媒介にした妄想である。
「夏とか、恋とか、惹かれるぅ」
「そだねー!」
「一体これって何なのか、知りたーい!」
「何を言っているのか、良くわかんなーい!」
疑問があることはわかるが、口の中に手をに突っ込むことに、ためらいがあった。
とても小さなことだったけれど、解答に近づいたと思う。
きっかけは「遠いゆめを泳ぐ」に行ったからだから、感謝したい。
コレは珍しい体験である。そう思ったので書いてみた。
アートを観ることに成熟なんてあるか知らんけれど、作品を前にして流れる時間が得難いと思っていたら、こんな展覧会がある。
うーん、凄い制作ペースだ!。
会期、あと、2日だ!!